弊社創業者の亀貝時雄が死去しました。

代表:亀貝太治記

さる9月13日の夕方に、父であり創業者の亀貝時雄が、闘病の末に永眠いたしました。79歳でした。

2020年夏から肺炎と感染症が悪化し、当時「冬を越せないだろう」と先生に言われていたのですが、同年冬に一旦持ち直し、実家で母と二人暮らしをしておりました。この春までは穏やかに過ごしていたのですが、5月から容体が急に悪化し、その後ICUに入院。8月末からは緩和ケアに移っておりました。直接の死因は肺炎です。

本来であれば生前お世話になった多くのお知り合いの方々に、賑やかに送っていただきたかったのですが、感染禍の中、喪主の母とも相談し、通夜・葬儀は家族と兄弟のみで執り行いました。
またご香典・ご供物・実家へのご弔問などは、お気持ちだけを頂戴いたしまして、ご辞退申し上げております。

ウイルスのせいで、お世話になった皆さん同士が、故人の思い出を語り、悲しんでいただく場がなくなってしまいました。
本当に残念で、申し訳ない思いです。

せめてこの場で、故人やこれまでの会社の思い出をつれづれと書かせていただきたいと思います。プライベートな話が半分以上になってしまいますが、どうぞご了承ください。

以下の話は一部、伝聞のみで事実関係を確認できなかった箇所があります。間違いなど見つかれば追って修正いたします。何卒ご了承ください。

1965年、弊社のはじまりは、東中通りの1本脇の路地沿いでした。

父は中学校卒業後どこかで看板屋さんに勤め、そこでガラスに文字を描く仕事をしていたと聞いています。

その後に塩谷さんという方の会社に入ります。そこでは後の画家:鈴木力さん(故人)が先輩で、かなり可愛がってもらっていたようです。今調べても詳しくは分からなかったのですが、この塩谷素路(そろ)さん(漢字は合っていないかも知れません)は、新潟で本当に初期の「商業デザイン」の会社だったと聞いています。前の看板屋さんとこの会社で、今で言うレタリング、カリグラフィー、タイポグラフィー的な作業を徹底的に仕込まれたと聞いています。

その後、父が最初に独立して一人で仕事を始めた場所は、東中通のちくら・BarBookBoxが入っているビルの隣、こちらの建物だそうです。2階なので東中通側からは入ることができません。裏通りから入るのがこのピンクの階段です。1965年、50年以上前なのに、そのまま現存しているのは驚きました。結婚前の母は、この階段を上って弁当などを差し入れしていたのだとか。

さらに数年後、ここから数軒海側の、恐らく今は駐車場になっている場所で事務所を借り、1972年、会社を法人化します。

1970年生まれの私は、小さい頃しばしば職場に連れて行ってもらい、今でもその光景をうっすら覚えています。当時は版下を作るために暗室や現像液があり、その酸っぱい匂い、そして糊や薬剤の匂いが特徴的でした。全体的に暗くて版下の紙クズも散らかっているその光景が、私の「しごと場」原体験で、私の「デザイン会社」の最初の記憶です。


▲恐らく1975〜85年頃の事務所内写真▼

なぜか不思議と「自分はこの場所で働くんだ。この商売をやるんだ」という気持ちは当時から決まっていました。ひょっとして後付けかも知れません。ただ、父から後を継いで欲しい。継いでくれ、などの言葉は1回も言われたことはありません。それなのに、自分の中では将来の職業について、一度も迷ったり悩んだりした覚えはありませんでした。
何故なのかは、今でも良く分かりません。

会社はその後、東中通りを挟んだ反対側の寺裏通りに移り、2箇所ほど移転したのでしょうか。1つは3階建てのビルだったことも覚えていますが、自分も大きくなるにつれてあまり会社には行かなくなります。ただ最初の場所からこの東中通り近辺の記憶は強烈に残っていて、「地元感覚」になっています。

後年自分が医学町ビルに関わることを即決したのも、この子供時代の影響がとても大きいです。何せ自社創業地のはす向かいで、思い入れがありました。

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さて、子供時代の私と弟は、父の制作する広告にしばしば出ていました。その頃はTVCMも手掛けていて、特にカワイイ盛りの年頃だった弟は重宝されていたようです。忘れられないのは、たしか五頭フィールドアスレチックのオープンCMで、制作時には現場が完成していない為、千葉までロケに行った記憶です。高速道もない時代で恐らく片道で8時間以上。ずっと車酔いして地獄の旅でした。しかもオンエアで写るのは弟ばかりでガッカリした覚えもあります。

また自宅でもCMの撮影をしていて、台所に多くの機材が持ち込まれ、もと野良猫だった我が家のミーコを無理矢理捕まえて登場させたり、撮影で何度も笑顔で何か製品を食べていた記憶があります。スタジオ撮影時には、これもまたミーコを連れて行くのですが、元ノラですからまったく言うことを聞かない。これもひっかき傷と猫オシッコの記憶と共に強烈に覚えています。

制作会社の子供はきっとモデルをやらされるのが常なのでしょう。私も加島屋さんの雑誌広告(→1 →2 →3)などでやはり自分の子供を使っています。

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父はとにかく釣りキチでした。あまりに釣りが好きで、子供に釣りを教えるヒマもないほどでした(と自分で言っていました)。小学校に入って間もない頃でしょうか。父の買ってくる『釣りキチ三平』の単行本を弟と取り合って読んでいた覚えがあります。その後大人になって物語が終わるまでの愛読書となりますが、自分は何故か釣りが性に合わず、今に至るまで数えるほどの経験しかありません。ただ、お仕事の知り合いはかなり釣りに巻き込んでいたようで、亡くなってから「亀さんには釣りから何から色々教わってねぇ…」と何人かの人に言われました。子供にはアレですが、基本的に面倒見が良かったようです。


▲社員旅行の写真は沢山残っています(掲載許可が取れないので載せられませんが)。そのうちの1枚。名前がやたら間違っています。自分も電話で「カメガイアートデザイン」と伝えると、大概「カネガイ」と復唱されます。舌っ足らずは父に似たのかも。

とにかく釣りと山が好きでした。大人になってから聞いた話ですが、熊の小説(たしか吉村昭の『羆嵐』)を読んだあと興奮してしまい、そのまま夜中に知っていマタギのところまで話を聞きに車を走らせた…などと言っていました。彼は仕事でも趣味でも、こんな風に思ったことをすぐ実行する行動的なタイプでした。


▲当時の加島屋さんの撮影で「どうしても河の光を採り入れたい」と言ってロケ撮影した時の写真だそうです。恐らく20数年前ではないかと思います。カメラマンの大島さんと一緒に。

私が子供の頃、週末の家族レジャーはすべてキャンプでした。と言ってもキャンプ場の類いには一度も行ったことがなく、どこかの山の中だったり、川原だったりです。焚き火は徹底的に仕込まれました。時に雪の中で火を熾させられたこともあります。父は釣りに行き、その釣果をその場で焼いて食べるのが常でした。なので基本的にあまり居ないのです。昔の三角テントを張って泊まったりもしました。山菜採りも相当仕込まれました。

小さい頃これだけキャンプに行き続けたにも関わらず、キャンプ「場」に行ったのは小学生の合宿が初めてで、あまりに色々勝手が違うのでさっぱり役に立たなかったような記憶があります。この苦手意識は今でも若干持っています。山や川に落ちているものはともかく、キャンプギアの類いがさっぱり扱えません。

また子供の頃は、年始などに会社の人達や関係の方達が大勢家に来ていた覚えがあります。皆で吞み食いした後は決まって麻雀が始まりました。家はいつも煙草の煙で煙っていて、ハナレグミの『家族の風景』の歌詞、そのものです。

特に新年会の習慣は私が社に入る頃まで続いていました。我が家は生まれた時から自営業だったので、このような光景が当たり前で、「普通」を知りません。

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時代は移り、私が東京の大学へ進学した頃(1990年代)に、会社は東中通を離れ、現在の女池に移転します。

当時は周りが田んぼで何もなかったと聞いています。一時期は20人弱?ほどいた社員も新社屋では10人位になっていた筈です。奥の部屋は写植室。電算写植・手動写植機を備えた、暗室もあるアナログ仕様でした。

広告業界・グラフィックデザイン業界に、Macintoshの登場でDTP化の波が押し寄せたのは、それから10年も経たない頃だと思います。
文字を現像し切り貼りした「版下」に指示を書き製版所で写真を貼ったり色を付けていた時代から、Mac1台でそれらの工程をすべて行えるデジタル時代が到来しました。

1千万単位のコストをかけたこれまでの機材が、100万円ほどのコンピューターにとって変わる時代に、当社は分かりやすく取り残されたようです。詳しくは分からないのですが、その時期のあまりのストレスで、父は一時期髪の毛が殆どなくなってしまいました。彼は死ぬまで毛髪は豊富だったのに(去年や今年の髪の毛の生え際が黒々としていたのには驚かされます)、いかに大変だったかが分かります。

ただ当時、私はまだ東京の会社に入ったばかりで新潟に戻るにはまだ経験も知識も足りず、ましてや営業職だったのでDTPの知識も中途半端。今帰っても役に立たないということで、緊急で弟が帰って会社のDTP化を進めました。このおかげで父のストレスも半減、なんとか髪の毛も戻っていったように聞いています。弟のおかげで私が新潟に戻る1999年頃には、社内にもDTPワークフローが半分出来上がり、アナログと並行して進めていける状態でした。非常にありがたかったです。


▲これは恐らく髪の毛が復活してからの写真では…と思います。後ろは恐らく、大島さんと同じく昔からチームを組んでいたフードスタイリストの小島富美子さんのように見えます。

さて新潟に私が戻って会社に入社し、そこで初めて父と仕事を共にするのですが、父の方針はほぼ「お任せ」でした。経営者とは言え、何十年も自身ででデザインをやっていた職人気質の父でしたので、私のやり方に色々思うところはあったと思うのですが、基本方針は「なんでも自分で体験しないと分からない」。
ですので本当に自由にやらせてもらいました。その中で自分でやれることを進め、新しいことにチャレンジし、失敗した時には父に聞くこともありました。そんな繰り返しで私も新潟の仕事や新潟の人達との関係を、少しずつ広げていきました。

とは言えデザインの話は別で、私の担当仕事で父に意見を求めると時に大幅な直しを指摘されました。そんな時に感じるのは、父の持つ「引いた目線」。いわゆる「ディレクター目線」です。私は今自分でほとんど作らない分、こちらが専門領域なのですが、自分で作るタイプの人がこの目線を持つことは難しいことが多く、長年続けられるのはこういう所なのだな、と今も思います。

私がこちらで営業経験もそれなりに積み、およそ慣れてきた頃からは、経営業務自体もほぼ引き継ぎ、父は仕事の一線から離れていきます。大好きな釣りに一層のめり込むことができたようです。ここからの父はまるで『釣りバカ日誌』のハマちゃんのようで、社長室ではいつも釣り竿やタモの手入れをしていて、空いている時間はほとんど釣りに(鮎、渓流、海など。湖以外はなんでも)行っていました。一番趣味が充実していた時期だったのではないでしょうか。
釣りの場で知り合った方を連れてきて「あとはお前が」と言ってお客様になったことも、何度かありました。

2017年、父と相談し、代表をバトンタッチします。
その後数年は、会長として相変わらず釣りばかりしながら、会社に通っておりました。
2018年、50年以上続けてきた会社を、父は退職しました。

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父がこの業界で生きてきた50年あまり、本当に多くの社員の方や、お客様や、業界の大勢の方々と知り合い、関係してきたことと思います。
私とは違い、常に明るく社交的で、笑いを忘れない性格だったように思います。今思い出しても、笑顔の彼しか思い出せません。

今頃は天国で思う存分に釣りを楽しんでいるのではないでしょうか。
皆さま、生前は本当にお世話になりました。父に代わり心より御礼申し上げます。

今後とも、弊社が長い間新潟で商売を続けさせていただいていることに感謝し、地元の皆さんに私達が寄与できることを常に考え、続けていきたいと思います。どうぞ引き続き、何卒宜しくお願いいたします。


▲2018年は、50年あまりの歴史の中で初めて自社イベント「縁日」を開催した年でもあり、父が退職した年でもありました。その年末に制作した2019年の年賀状です。会社創立当時の父の写真でした。